この週末はなぜか聖書に親しんでしまった

id:hokusyu氏が「男は獣」という言葉の無責任さを分析するエントリ(d:id:hokusyu:20091206)を書いています。

「獣」というのは、「私の中にあって、私のコントロールが効かないもの」の象徴にほかならない。
われわれは誰しも、自分の中の倫理にすら反してしまうような欲望を抱いてしまうことはある。
そこで葛藤が生じる。そのようなとき、この欲望は私の中の「獣」が抱いた欲望であって私のものではない、ということによって、つまり「獣」に欲望をアウトソーシングすることによって、葛藤を解消しようとするのだ。
「自身の欲望とどのように向き合うか」という問いは、ここで「自身の獣とどう向き合うか」という問いに変換される。「獣」は自分で自由に操作できない。したがって根本的な敵対は敗北を運命付けられている。問題になるのは欲望の本質ではなく、せいぜい「どう折り合いをつけるか」ということでしかない。
果たして、「獣」は邪気眼となる。欲望が生じた場合、

「っぐわ!・・・くそ!・・・また暴れだしやがった・・・」

ということによってむしろ、全人格を欲望の中に投企することが可能になる。
そのようなひとにとって、「お前は獣ではなく人間だ」といわれることは、ひとつの不安をまねく。
欲望の帰属先がなくなってしまうのだ。
欲望が「人間」の所有物であるとすれば、それは私という「人間によって」"immer wieder(常に、再び)"な裁きの対象にならざるをえない。
ところが、「欲望は裁けない」という信念がある。そのような信念にとっては、欲望を私の中の法廷に引きずり出すことすら罪である。よって、是が非でも欲望を「獣」という治外法権の中にとどめておこうとするのではないだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20091206/p1

「自分の中の倫理にすら反してしまうような欲望」を抱いてしまう自分を免責するための便利な装置が「獣」というわけです。「よからぬ欲望を抱いちゃったけど、それはわたしの中の獣がしたことです。アタマじゃ悪いって分かってるけど、どうにもできないんだよね。だって獣がすることだもん」……なるほど重宝な装置もあったもんだ!と納得して膝を打ったのですが、そんなhokusyu氏のエントリにイミフなブックマークコメントがついてます。

welldefined パウロの手紙でも読んでから出直せ 2009/12/06
Midas 呆れて物も言えない welldefinedが全面的に正しい。このデタラメを英訳して転載すればhokusyuと賛同者は世界の笑いものとなるとだけ言っとく。因みに参照すべきは「ローマ人の手紙」7章。聖書文化圏では無神論者の中学生でも知ってる常識 2009/12/06

新約聖書の「ローマ人の手紙」は、キリストの直弟子の一人である使徒パウロがローマのキリスト教徒に宛てて書いた手紙です。さっそくMidas猊下の仰せに従って第7章の22節〜23節を見てみましょうか。

すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

そしてパウロはこう続けます(第8章13節)。

なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

「わたし」の中には「神の律法」=「心の法則」=「霊」と、「別の律法」=「罪の法則」=「肉」が存在し、「罪の法則」は「心の法則に対して戦いをいどみ」その「中に、わたしをとりこにしている」……つまり「わたし」においては「霊」は「肉」に敗北しているわけです。この「肉」がhokusyu氏が言う「獣」と同じであることは容易に理解されると思います。そして「罪の法則」が「わたしをとりこにしている」というのは、まさしく欲望のアウトソーシングですね。

そしてパウロはそのアウトソーシングに対して(キリスト教的な)解決策を提示しています。つまり「肉」が「霊」を優越するからこそ、主の教えに帰依して「霊」によって「肉」を殺せば(hokusyu氏の表現を借りるなら「私の中の法廷」に「獣」を引きずり出せば)「生きるだろう」と言い、その一方で「肉に従って生き」ているなら「死ぬ外はない」と脅かしているわけです。

hokusyu氏は使徒パウロとおおむね同じことを言っているのですが、Midas猊下は「ローマ人への手紙」は英訳して転載すればパウロとその賛同者が世界の笑いものになるようなデタラメというお考えで、welldefined氏は使徒パウロに聖書読んでから出直せとセッキョーをくれるのでしょうか?